ドラフト選手の家庭の事情、荘司康誠(楽天1位)

2022年11月09日 09:20

[ドラフト会議情報局2022 - 楽天]

抜粋

11/9、日刊ゲンダイ25面「ドラフト選手の家庭の事情」より 

2022楽天ドラフト1位 荘司康誠
立教大・投手・動画

「そもそも、新潟明訓高に進学していなかったら、まったく違った今になっていたかもしれません」。こう言って顔をほころばせるのは父・聡さん(59)だ。

楽天から1位指名された右腕が急成長を遂げたのは立大に進学してから。高校時代はほとんど無名選手で、エースとして投げた最後の夏は初戦敗退。指定校推薦で立大を選び、野球部には別途あるセレクションを突破して入部した。そこで花開いたのだから、聡さんが言うこともうなずける。

聡さんも野球経験者だ。新潟南高で迎えた3年夏は一塁手としてクリーンアップを務め、県大会ベスト4。「野球は高校までです。悔いなくやりきりました。私たちが敗れた新発田農はこの年の甲子園で県勢史上初の2勝を挙げたチームなんですよ」と、聡さん。進学先の法大ではゴルフ漬けの4年間を過ごした。

「今は女子プロが人気ですが、当時は男子プロも勢いがあった。青木功さんや中嶋常幸さん、ジャンボ尾崎さんたちが活躍していた時期です。私もやってみたいなと。部活ではなくサークルでしたが、練習量は負けていなかったはず(笑)。好きなクラブはドライバーとサンドウエッジで、ベストスコアは75でした。アルバイト? ゴルフ場です(笑)」(聡さん)

卒業すると新潟県に戻り、新潟交通に就職した。長い目で見たときに、生活をするのなら地元が良いという判断だった。

1997年に結婚し、翌年に長男(荘司の兄)、2000年に荘司が生まれた。「航空部」に所属して新潟空港内のフロント業務に携わっていた当時は、平日休みという就業スタイル。息子たちが小学校に上がるまでは、冬になると毎週のようにゲレンデに繰り出し、家族4人でスキーを楽しんだ。それでも、息子たちにさせたいスポーツは野球だったそうだ。

「強制させるわけにはいかないから、ゲームを使って、洗脳、ではありませんけどね(笑)。『パワフルプロ野球』というゲームは、選手の能力を自由にカスタマイズしたり、名前を付けたりもできるんです。すごく直球が速い投手や、とんでもない打者を作り、息子と同じ『こうせい』と名付けて一緒にプレーしました。そうして、『うわぁ、康誠すごい球を投げるね!』『康誠が打った!』とおだてるような感じで(笑)。その甲斐あって、野球に興味を持つようになってくれました」(聡さん)

荘司は小学2年生で地元の少年野球チーム、青山あらなみに入団。当時から大柄だった体格を生かしてエースで4番を打っていたが、中学時代に所属した新潟西シニアでは成長痛なども重なり、ほとんど試合に出ることがなかった。

3年夏に日本選手権(8強)に出場したとはいえ、投手ではなく、控えの外野手としてだった。新潟西シニアの青山准監督が言う。

「背は高かったけど、ケガが多くてね。腰にコルセットを巻きながらやっていた時期もありました。野球強豪校からのスカウトは来ず、進学校の明訓には一般受験で入ったと記憶しています。当時は野球を続けるかどうか悩んでいたんですよ。指導者をしていると、『この子はプロに行くだろうな』なんて思ったりしますが、荘司は……。高校で体ができてきたら、夏の県大会で1、2勝するくらいの投手にはなるんじゃないかなと(笑)」

荘司の才能は後に開花するが、見守り続けてきた聡さんもサラリーマンとして一つのゴールにたどり着いた。新潟交通で所属していた「航空部」が04年に子会社化され、新潟航空サービスが設立。同社に出向した聡さんは当初、国際便のチェックイン係をするなど現場の最前線に立っていたが、徐々にマネジメントを任されるようになり、16年に代表取締役社長に就任した。

「この立場になり、常に頭のどこかに会社のことがあります。本当に心が休まる時間は少ないですね。空港での仕事なので、現場の社員は土日関係なく一生懸命に働いている。そういう社員に報いたいし、しっかり支えるという私の役割を果たしたいと思ってやっています。それにしてもコロナ禍初期は大変でしたよ。でも、今では運航便は9割くらい回復したし、お客さまも6割ほどまで戻ってくださった。希望は見えています」(聡さん)

これからはプロのマウンドで戦う息子の存在も頭を占めることになりそうだ。



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